『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の感想―人間は必要か?
昨日、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を見てきた。
ギドラも、ラドンも、モスラも、ゴジラも、全員がかっこよかった!
彼らが動いているのを、素晴らしい演出で見れること、これこそがこの映画の醍醐味である。
ギドラは何度でも劇中で「キメ」のシーンが流れていて、その「王」たる所以をたっぷりと見せつけていた。
ラドンはその登場シーンにて、町の上を飛ぶだけで、その町を破壊する。まさに飛ぶ災害である。あのシーンだけでラドン愛が芽生えた。
モスラはその美しさが魅力である。出てくるシーンは毎回、その美しさを=人類の希望として描いていた。これは、モスラが初登場した日本の映画においての扱われ方とよく似ている。
ゴジラ、最高だ!お前がいないと始まらないとばかりに、周りに巻き込まれ周りを巻き込んでいく姿は最高に主人公である。
だが、結局この映画はそれだけなのだ。いや、それ以外がゴミと言ってもいい。
「出てくる人間は狂人だけ」というツイートや、それに似たツイート、賛同するツイートがよく見られたが、それはきちんと言い表していない。
「出てくる人間は頭が悪い奴ばかりで、全員いらない存在だ」というべきだ。
ことの発端となった重要アイテム「オルカ」、これ自体はとてもいいアイテムである。ストーリーを作り上げていく点でもとても役に立つアイテムと言えるだろう。
しかし、これを取り巻く人間が全員無能どころではない害悪なのだ。
まずこれを作ったマーク、壊すなら完全に破壊しろ。それが不可能であったとしても、それが(動物学者であろう)妻に数年で直されるというのは、誰でも作れる・直せるものだったのではないか?
さらに彼は、妻と娘を助けるためにすぐモナークに協力する。いやいや、それしか方法はないとはいえ、もっと葛藤とかないのか。ゴジラに対しても、憎しみを抱いていたのにも関わらず、その姿を見た瞬間、「味方だと知らせるんだ」と、友好的態度を表明する。一貫性がなさすぎる。さらに気になったのは、終盤、娘を助けにいくシーンで、息子を亡くしたときと同じ方法、「名前を叫び続ける」ということしかしていない。結局娘は見つかったが、それも妻と周辺にいた兵士のおかげだ。彼は、劇中何も成長していないどころか、息子の死から学んだはずのことさえ忘れてしまう。
次に妻のエマである。これほど行動に「は?」をつきつけたい登場人物はいないだろう。作中、彼女は重要な行動をするたびに迷い続ける。支援者にも呆れられ、娘には失望される。それでも、自分の信じる道を行くのだ!という意志さえ見えれば、まだ「狂気に染まった科学者」として魅力的に映ったことだろう。しかし、彼女はその行動に一貫性を持たすことはない。何をしているのか、自分でも理解していないんじゃないか?というぐらい、何も考えていないように思える。
そして娘のマディソン。上記の二人と比べれば、まだましに見えるが、それは彼女が「子供」だからだ。彼女もまた、行動に一貫性はない。というか、一貫性はあるのだろうが、それがあまりに稚拙なのだ。(話は脇にそれるが、マディソンがオルカを盗み出すシーン、あまりの警備の緩さに笑ってしまった。少なくとも、マディソンがエマの行動に対して反発していたこと、そもそもマディソンは強制的に連れてこられた唯一の人間であって、警戒すべきであるのは一目瞭然。百歩譲って子供だからと無警戒になっていたとしても、その後の対応が寛容すぎる。)マディソンは、魅力的なヒロインになりえなかった。
最後に、人間内の敵側のボスであるジョナ・アレン。
こいつは結局何がしたかったのだ?よく覚えてもいないが、世界を自然な状態に戻すとかなんとか主張している環境テロリストだったか。それは結構(というか、よく覚えていないので突っ込まないが)、しかし、あまりに計画がずさんだ。「オルカを使って、ギドラを頑張って蘇らせて、ほかの怪獣たちも一体ずつゆっくりと蘇らせよう」という計画だったのだろう。途中、怪獣たちが一斉にギドラに呼応して現れるシーンで驚いていたことから、このことが予想される。しかし、なぜ一体ずつなんだ?劇中で意図せずなってしまった形である、同時多発的に怪獣たちが現れるほうが自然じゃないか。さらに言えば、そのほうが脚本的にも動かしやすい。「フハハハ、まさに計画通り!世界よ、一気に混沌に落としてくれる!」とでも言ってしまえば、いい悪の親玉ではないか。もちろん、この演出にも意味があるのだろう。「予測不可能で、人間の計画など意に介さない存在としての怪獣」を演出するという意味だ。しかし、これは必要ではない。否、必要ではなくされてしまったのだ。
ゴジラを筆頭に、怪獣たちは「人間臭さ」が漂っていた。
ゴジラはギドラが人間を攻撃しようとすると、その寸前に待ってましたとばかりに現れ、人間を救った。
渡辺謙がゴジラのもとへ向かったシーンでは、ゴジラは慈しみの表情さえ浮かべていた。
ラドンは、モスラに胸を刺されたとき、思いっきり人間らしい表情をして苦しみ・驚きを表現した。
モスラはまず「人間の希望」として描かれている以上、人間からスタートした存在となっている。
そしてギドラは、3つの頭が互いにコミュニケーションを取り、人間が作った「オルカ」が機械であることを完全に見て取って(最悪でも人間が原因であることはわかったはずだ)尚オルカに執着した。
そう、「怪獣たちは人間の中身を入れられてしまっている」のである。そこにあるのは、予測不可能な、暴力の塊で、我々がどうすることもできない存在である怪獣ではない。
予測可能で(これは生体レーダーではっきりと示され、ゴジラを利用する作戦が当たり前にたてられていることからもわかる)、
我々もどうにかできる(オキシジェン・デストロイヤーは、その役割を一応果たしたし、オルカはその最たるものだ)
今までの怪獣とは違う存在なのである。
この点にとても失望した。ストーリー展開上の粗が多すぎるのは、最早怪獣たちを魅せるための最良の方法を考えた上だと思い込める。
しかし、怪獣を拡大解釈し、我々に近づけてしまった。そこには、感情移入さえ可能な、「人間の代替物」である怪獣なのだ。これはとても悲しいことである。ならば、怪獣でなくていい。あんなにでかくなくていいし、言葉も通じるようにしてほしい。
求めるものが違う、という指摘はあるだろう。
しかし、そうではない。
監督は本当にこれが作りたかったのだろうか?
素人の私でもわかる、「怪獣映画」の見方を、どこかで間違えてしまったのではないだろうか?
劇中では、人間サイドからすると怪獣は従来のイメージのままなのだ。災害であり、どうにもできない、予測を超える存在として言葉上は表現される。そのシーンはたくさんあった。
しかし、観客からすると違う。観客は、そこに「人間の代替物」を見るのだ。
その食い違いは、きっとみんな心のどこかに持っている。だからこそ、彼らは主張するのではないだろうか、
「登場人物は全員狂人」だと。
自分が見たものとは違う世界が見えている登場人物。それを、狂人と表現しているのではないだろうか。
「シン・ゴジラ」ではそうではない。
観客も、登場人物も、ゴジラを理解できないが、どうにかしなくちゃいけないと思い、結果どうにかなっただけだ。進行方向は、「シン・ゴジラ」内であれば地上なのでわかりやすかったので、作戦を立て実行するシーンも違和感はない。
しかし、今作の場合、ゴジラは地下空洞を通って事実上の瞬間移動をするのに、作戦は立てられる。
結局、この映画には、必要最低限の人間しかいらなかったのだ。それ以外は、不必要だった。