死について考えること

私は常々いつ死んでもおかしくないと言うかいつ死んでも良いんじゃないかな何て思い込みながら日々を生きているわけですが、そのことを人に語ると「中二病」やら「かっこつけやがって」と言われるのが少し悲しいのです。

昔から言うではないですか、メメントモリ、死を思えと。その意味は至極簡単でありまして、「いつ死ぬのかはわからない。だがいつかは人は死ぬのだ。ならば今現在だけは人生を謳歌して、死がいつ来てもいいと思えるようにしよう」と、そういう意味なのです。

しかし、死というものはどうやら高齢者の専売特許にでもあるのか、若者が死について考えていると横っ首突っ込んで「そんなこと考えなくていいんだ。どうせ死にゃしないよ」なんて無責任なことを言う輩ばかりが見受けられます。

高齢者の方々が終活と言って、死んだ後のことなんかを一つ一つ決めていくというものは賞賛されたりしますよね。墓を決めたり、どうやって弔ってほしいのか、遺産はそのように分配するのかというものを決めるようですが、なぜそれを若者が考えてはいけないのでしょうか。

というか、死というものは人が生まれてからというもの文字通り死ぬまでついて回る悩み事です。それを考える人を笑う輩というのは、それを考えるのをやめただけの人間なのです。言ってしまえば「自分には分からない」と言って考えるのを諦めた人々です。

死んでからどうなってしまうのか、あの世なんてものがあるのか、というか死とはどんなものなのか、そういったことを考えないで、一体どのように生きることが出来るでしょう。

死を考えることは、逆説的に生について考えることにつながるのです。考えれば考えるほど、死というものは得体の知れないものだと思えるようになります。

誰かの死体を間近で見たことがある人は分るでしょう。あの死体というものは、なんとも目をそむけたくなる風貌をしているのです。死というものは、さっきまで人だったものを、いとも簡単に冷たい物体に変えるものなのだなぁ、なんて心の底から痛感するのです。そして、生きている人間には優しくして見ようとか、親も友人もいつかはこうなるのだな、ともすると私もすぐに同じ物体に変貌してしまうのではないか、なんて思わせるのです。

葬式の次の日は、なんだか生きているのかそうでないのか微妙な塩梅の心持で生きる他なく、映画やなにかを見ても、そのスクリーンとこちら側、物語と現実の間にどのような違いがあるやも知らん、と感じていつものように楽しめないのです。

しかし人というものはどんな因果か、死ぬまでは生きてなくちゃいけません。しかも現実を生きる他ないのです。

そう思うと、今食べているこの牛丼も、おやつのプリンも、愛おしくて仕方がなくなってくる。五感が正常に働いていることを天と親に感謝しながら、街並みを歩くのです。

すると、すれ違う人すべてがどうやら私と同じく生きていて、人生というものをともすれば私より長く経験していることが理解できるようになる。

そうすると、やはり私含む人間というものが生きているのがどんなにありふれた奇跡なのであろうか、と感嘆するに堪えません。

今生きているのが奇跡ならば、やがていつかは死ぬのが必定。というわけで、私は自分がいつか死ぬことをこれっぽちも不思議なものとは感じないのです。むしろ死ぬべきなのだろうと、そう思ったりもします。

私にはやり残した事というのは有り余るほどあります。この世に未練もたらたらです。しかし、日々生きている、人生を謳歌している。たったそれだけで、自分には死ぬのも悪くないと感じてしまうのです。

人工知能学会セッション「未来社会の知能・虚構・リアリティ」の感想―VRと人間の尊厳の可能性―

まずは、この動画を見てほしい。1時間40分と長いが、この種の話し合いが好きな人にはたまらないであろう内容になっている。

youtu.be

 

今回は、この動画の、主に第二部におけるセッションについて、感じたことを書いていきたい。前回と同様、思ったことをつらつらと書くだけなので、整合性はないかもしれないが、ご容赦願いたい。

 

さて、第二部ではVRVirtual Reality)についての質疑応答が行われる。

回答者はVRなどについて研究している東京大学専任教師、鳴海拓志

現在もVチューバ―(バーチャルな存在としてのYoutuber)として活躍する、届木ウカ

SF作家として人気を博している柴田勝家(各敬称略)の御三方である。

時系列通りではないが、以下で簡単に彼らの話したことをまとめていきたい。

 

まず、VRの重要性について。これは4つあると考える。

VRの重要性の1つ目とは、我々の体験することとは違う、他の(ありえないような)体験ができる点だ。VRゲームなどに代表されるような(例:「サマーレッスン」)環境は、たいていの人が体験できないことを、目の前にありありとした形で見せてくれる。

次に、現実の追体験ができる、という点だ。1つ目と違うのは、それは現実の延長線上として捉えられる。動画内でも出てきたが、ホストがVRゲームをプレイしていると、女の子が近くに来た描写の時に、吐息を感じたという。しかし、そのような仕様は開発者は組み込んでいない。ホストは、その吐息を自分の体験から追体験したのだ。

3つ目は、現実を拡張できる点だ。例えば人の手を伸ばしたようにみせ、遠隔のものを動かすなどである(これはどうやら、腕が本来の4倍以上の長さになった辺りで行為者が違和感を抱くようになるらしいことから、制限があることがわかる)。

最後に、現実を変える力を持つ点だ。柴田勝家は、VRではないが、自分ではない他のキャラクターになりきる点が同じであるオンラインゲーム「信長の野望オンライン」において、「わし」という一人称を使いだした。その後、その「わし」は現実にも侵食しだし、遂には現実世界でも「わし」でなければ違和感を強く抱くようになったという。また、ムキムキの肉体をもったアバターVR空間上でなると筋力が上昇する、自分がアインシュタインだと思い込むと知能テストの結果が良くなる、などの変化が起こっている。ネット上では、いわゆる「バ美肉」(バーチャル美少女に受肉すること)をした男性が、普段の生活から女性らしい行動をするようになった例などが(真偽のほどは不明ながら)挙がっている。

さて、この4点について、各人が発言したことを見ていこう。

まず、鳴海氏は、「VRチャット」において、位置的に遠いルーマニア人や、マイノリティに属する人々とも偏見なしに会話できる点を重要だとあげている。

また、アバターの性質によって現実の能力以上の能力を発揮する例を挙げていた(上記のような、筋力・知力上昇について)。DVを続ける夫に対して、体の大きい男性に説教されるVR映像を体験させたところ、DVが改善されたという例や、サンゴ礁になるVR体験によって環境意識が改善されたなど、興味深い話を多くしてくれた。

さらに、複数のアバターに分身することで、2対1の話し合いのときなどにも、2対2になって話すことが出来る。話している内容が分身と同じであっても、2対1のときよりも2対2の時のほうが、話し合い終了後の納得度がどの立場でも高かったという事例も挙げてくれた。

届木氏は、生まれつき耳が悪く、現実のライブには音響の関係で行けないが、VRライブであれば音量調整が個人に委ねられるため、参加することができる、という自分の体験を語った。また、ひきこもりの人も(何らかの原因で外に出れない人も)友達とキャンプをする、踊るということが出来る。他の人が出来て自分たちが出来ない事も、同じVR空間上であれば同条件のもとに出来るという、現実との遊離こそVRの重要な点であると強調していた。また、VR面接によって、地方と都市部との就活格差もなくなるのでは、とも主張していた。

柴田氏は、オンラインゲームによって自身の一人称が変わったという話が一番興味深かった。また、(ブログ筆者は未読であるが)VR機器をつけたまま一生を過ごす民族の話も書いていたという。人間として生きながら、この現実の捉え方が違う、というのはどういうものなのか、という疑問を提唱してくれた。

三者が語っていた中での共通点もいくつかあった。

1.VRには想像できるためのinitiation(地続き感のある、始まりの「儀式」)が必要だとしていた。例として、いきなり北極に拉致されて連れてこられても、現実感はなく、自分のことだとは長い間信じられないだろう、と言っていた。

2.VRは現実との比較が重要である。現実で学んでいないことは、VR上でも再現・体験できない、としている。

3.2と関連して、現実の感覚がVR体験をより助長させるようになる。逆に、VR体験が現実の感覚を助長させることもありうる。

4.VR体験は人間の「肉体」との違いを意識させてくれる。人間の肉体以外の体験を多くすることで、人間の肉体というものがわかりやすくなる、ということだ。

5.VRは仮想現実ではなく、実質現実と訳すべきかもしれない。

 

さて、ここまでがセッションの内容のまとめであった。ここから、感想に移りたいと思う。

途中途中で「VRを可能にするのはなんなのか?」という疑問が生じた。セッション内では、これの答えに近いものが何個か出ていたが、私は「想像力こそが、可能にする」と考えている。フッサールは、人間の現象は想像力によって現れるものだと主張した。(詳しくは、『フッサール 起源への哲学』などを読んでほしい。)

人間が意識することは、目の前にあることをいったんとどめて、その整合性を考え始めてそれが意識の中に現れる。その整合性を考えるうえで必要なのが、想像力なのだ。

この考えは、多くのことに適用できる。例えばVRVRにおいて、自分の体以外を自分として体験できるのは、想像力によるものだろう。initiationは、その想像のために必要になってくる。例えばAI。人はまだ、AIに意識は宿っていないと考える。それはなぜか?人によって多くの考えがあるだろうが、突き詰めるとAIには想像力が足りないのだ、という結論に至るだろうと私は考えている。これは動物などにも適用されるだろう。つまり、想像力こそが人間を人間たらしめている、ともいえる。

さて、せっかく哲学者を引用したので、もう一人ほど挙げておこう。VRによって他の体験ができるのであれば、ロールズの提唱した思考実験「無知のヴェール」も体験できるのではないか?と考えている。

「無知のヴェール」とは、社会的正義(優先事項)を考えるうえでの思考実験である。

人々は、生まれつき家柄、財産など、多くの要素を持って生活している。しかし、社会を構成する際、お金を多く持っている人はそれを守ろうと、権力を持っている人はそれを維持しようと考えるだろう。それが、失われる可能性があるとしても、現状のことを考え、今・自分に都合がいいように社会的正義を作り出そうとする(例:絶対君主制、貴族政)。しかし、その際、「無知のヴェール」という、どこの家に生まれ、どのぐらい資産を持てるかスタート時点でわからないような状態に全員をすれば、「平等に財産が分け与えられ、平等に権利を持つ」ような社会的正義(民主制、社会保障)を選択するだろう、という考えである。

これを、VRによって体験させるのだ。VRで、富裕層から貧困層までの生活を体験させ、富裕層でも貧困に容易に陥ることを体験させる。これは、VRの政治的利用にはなるが、偏見をなくす点ではとても有効的な手段となりうるだろう。

 

VRは自分の肉体を変えうる。肉体は、代替可能なものへと変化する。この事実は、現実において絶対的にまとわりついた閉塞感「肉体の唯一性」を破壊するのでは?とも考えている。つまり、我々は「VRチャット」内の自分、「バ美肉」後の自分、その他VR空間内の自分、というように、自分の「肉体」を容易に複数持ちうるようになるだろう。

話は変わるが、人間の尊厳とはどこからうまれるだろう?

私は、「他者との比較」から生まれるのではないか、と考えている。

「俺はあいつらと違って○○をやり遂げたんだ!」「私はこのクラスの中で一番成績がいいんだ!」という、他者との比較が、尊厳を作っていくと考えている。しかし、皆さんもきっと体験しているように、この尊厳というものは厄介だ。なぜなら、そこには他者が絶対に関わってくる。他者は、時に自分より優れていて、自分よりも愛されている。これが尊厳を傷つけるものとなる。尊厳とは、もろく壊れやすいのだ。

しかし、ここに他者が介在しなくなるとしたらどうだろうか?つまり、「自分」と「他の自分」の比較から、尊厳を作り出せるようになるのではないか?

VRチャット」の自分は、話し上手だ。「バ美肉」した自分は世界に愛されている。「○○VR」の自分は、気の合う少数の友達と口下手ながら仲良くやっている、というように。人間の「本性」というものは無く、状況によって現れ出る人格は変わる、ということは昨今では常識になってきた。このような、VR上の複数人格はありうるものだろう。そして、「自己と自己の比較」が完成したのなら、尊厳は失われることはない。他の人格が誰かに攻撃され、傷ついたとしても、他の人格を自慢すればいい。さらに、Vチューバ―の多くが語っているが、「VR上では、憧れの存在に容易になれる」のだ。現実の自分に尊厳がなくても、尊厳が持てるような存在になることが出来る。これこそが、VRと人間の可能性である。

 

余談だが、VR空間とAIの発達が広がれば、VR上の人格とAIの区別は出来なくなるのではないか、と考えている。AIさえも、VR上の人格と捉えられ、今まで人格を与えられなかったAIが人格を持つようになるのではないだろうか。その時、遂に人類は機械との共存を達成するのかもしれない。

 

フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)

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ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 

 

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の感想―人間は必要か?

昨日、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を見てきた。

ギドラも、ラドンも、モスラも、ゴジラも、全員がかっこよかった!

彼らが動いているのを、素晴らしい演出で見れること、これこそがこの映画の醍醐味である。

ギドラは何度でも劇中で「キメ」のシーンが流れていて、その「王」たる所以をたっぷりと見せつけていた。

ラドンはその登場シーンにて、町の上を飛ぶだけで、その町を破壊する。まさに飛ぶ災害である。あのシーンだけでラドン愛が芽生えた。

モスラはその美しさが魅力である。出てくるシーンは毎回、その美しさを=人類の希望として描いていた。これは、モスラが初登場した日本の映画においての扱われ方とよく似ている。

ゴジラ、最高だ!お前がいないと始まらないとばかりに、周りに巻き込まれ周りを巻き込んでいく姿は最高に主人公である。

 

だが、結局この映画はそれだけなのだ。いや、それ以外がゴミと言ってもいい。

「出てくる人間は狂人だけ」というツイートや、それに似たツイート、賛同するツイートがよく見られたが、それはきちんと言い表していない。

「出てくる人間は頭が悪い奴ばかりで、全員いらない存在だ」というべきだ。

ことの発端となった重要アイテム「オルカ」、これ自体はとてもいいアイテムである。ストーリーを作り上げていく点でもとても役に立つアイテムと言えるだろう。

しかし、これを取り巻く人間が全員無能どころではない害悪なのだ。

まずこれを作ったマーク、壊すなら完全に破壊しろ。それが不可能であったとしても、それが(動物学者であろう)妻に数年で直されるというのは、誰でも作れる・直せるものだったのではないか?

さらに彼は、妻と娘を助けるためにすぐモナークに協力する。いやいや、それしか方法はないとはいえ、もっと葛藤とかないのか。ゴジラに対しても、憎しみを抱いていたのにも関わらず、その姿を見た瞬間、「味方だと知らせるんだ」と、友好的態度を表明する。一貫性がなさすぎる。さらに気になったのは、終盤、娘を助けにいくシーンで、息子を亡くしたときと同じ方法、「名前を叫び続ける」ということしかしていない。結局娘は見つかったが、それも妻と周辺にいた兵士のおかげだ。彼は、劇中何も成長していないどころか、息子の死から学んだはずのことさえ忘れてしまう。

次に妻のエマである。これほど行動に「は?」をつきつけたい登場人物はいないだろう。作中、彼女は重要な行動をするたびに迷い続ける。支援者にも呆れられ、娘には失望される。それでも、自分の信じる道を行くのだ!という意志さえ見えれば、まだ「狂気に染まった科学者」として魅力的に映ったことだろう。しかし、彼女はその行動に一貫性を持たすことはない。何をしているのか、自分でも理解していないんじゃないか?というぐらい、何も考えていないように思える。

そして娘のマディソン。上記の二人と比べれば、まだましに見えるが、それは彼女が「子供」だからだ。彼女もまた、行動に一貫性はない。というか、一貫性はあるのだろうが、それがあまりに稚拙なのだ。(話は脇にそれるが、マディソンがオルカを盗み出すシーン、あまりの警備の緩さに笑ってしまった。少なくとも、マディソンがエマの行動に対して反発していたこと、そもそもマディソンは強制的に連れてこられた唯一の人間であって、警戒すべきであるのは一目瞭然。百歩譲って子供だからと無警戒になっていたとしても、その後の対応が寛容すぎる。)マディソンは、魅力的なヒロインになりえなかった。

最後に、人間内の敵側のボスであるジョナ・アレン。

こいつは結局何がしたかったのだ?よく覚えてもいないが、世界を自然な状態に戻すとかなんとか主張している環境テロリストだったか。それは結構(というか、よく覚えていないので突っ込まないが)、しかし、あまりに計画がずさんだ。「オルカを使って、ギドラを頑張って蘇らせて、ほかの怪獣たちも一体ずつゆっくりと蘇らせよう」という計画だったのだろう。途中、怪獣たちが一斉にギドラに呼応して現れるシーンで驚いていたことから、このことが予想される。しかし、なぜ一体ずつなんだ?劇中で意図せずなってしまった形である、同時多発的に怪獣たちが現れるほうが自然じゃないか。さらに言えば、そのほうが脚本的にも動かしやすい。「フハハハ、まさに計画通り!世界よ、一気に混沌に落としてくれる!」とでも言ってしまえば、いい悪の親玉ではないか。もちろん、この演出にも意味があるのだろう。「予測不可能で、人間の計画など意に介さない存在としての怪獣」を演出するという意味だ。しかし、これは必要ではない。否、必要ではなくされてしまったのだ。

ゴジラを筆頭に、怪獣たちは「人間臭さ」が漂っていた。

ゴジラはギドラが人間を攻撃しようとすると、その寸前に待ってましたとばかりに現れ、人間を救った。

渡辺謙ゴジラのもとへ向かったシーンでは、ゴジラは慈しみの表情さえ浮かべていた。

ラドンは、モスラに胸を刺されたとき、思いっきり人間らしい表情をして苦しみ・驚きを表現した。

モスラはまず「人間の希望」として描かれている以上、人間からスタートした存在となっている。

そしてギドラは、3つの頭が互いにコミュニケーションを取り、人間が作った「オルカ」が機械であることを完全に見て取って(最悪でも人間が原因であることはわかったはずだ)尚オルカに執着した。

そう、「怪獣たちは人間の中身を入れられてしまっている」のである。そこにあるのは、予測不可能な、暴力の塊で、我々がどうすることもできない存在である怪獣ではない。

予測可能で(これは生体レーダーではっきりと示され、ゴジラを利用する作戦が当たり前にたてられていることからもわかる)、

暴力以外も持つ(ゴジラモスラは思いやりを持っている)、

我々もどうにかできる(オキシジェン・デストロイヤーは、その役割を一応果たしたし、オルカはその最たるものだ)

今までの怪獣とは違う存在なのである。

この点にとても失望した。ストーリー展開上の粗が多すぎるのは、最早怪獣たちを魅せるための最良の方法を考えた上だと思い込める。

しかし、怪獣を拡大解釈し、我々に近づけてしまった。そこには、感情移入さえ可能な、「人間の代替物」である怪獣なのだ。これはとても悲しいことである。ならば、怪獣でなくていい。あんなにでかくなくていいし、言葉も通じるようにしてほしい。

求めるものが違う、という指摘はあるだろう。

しかし、そうではない。

監督は本当にこれが作りたかったのだろうか?

素人の私でもわかる、「怪獣映画」の見方を、どこかで間違えてしまったのではないだろうか?

劇中では、人間サイドからすると怪獣は従来のイメージのままなのだ。災害であり、どうにもできない、予測を超える存在として言葉上は表現される。そのシーンはたくさんあった。

しかし、観客からすると違う。観客は、そこに「人間の代替物」を見るのだ。

その食い違いは、きっとみんな心のどこかに持っている。だからこそ、彼らは主張するのではないだろうか、

「登場人物は全員狂人」だと。

自分が見たものとは違う世界が見えている登場人物。それを、狂人と表現しているのではないだろうか。

シン・ゴジラ」ではそうではない。

観客も、登場人物も、ゴジラを理解できないが、どうにかしなくちゃいけないと思い、結果どうにかなっただけだ。進行方向は、「シン・ゴジラ」内であれば地上なのでわかりやすかったので、作戦を立て実行するシーンも違和感はない。

しかし、今作の場合、ゴジラは地下空洞を通って事実上の瞬間移動をするのに、作戦は立てられる。

結局、この映画には、必要最低限の人間しかいらなかったのだ。それ以外は、不必要だった。